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世田谷線沿線にある幼稚園に通っていたので、70形等の旧型電車は懐かしいです。旧型電車が引退した時が幼稚園卒園直前で、その頃の世田谷線が最も心に残っています。三軒茶屋駅が今と違ってかなりこぢんまりしていますね!
いつもご視聴、コメントありがとうございます。5,6歳の子供の頃の記憶って意外にしっかりしているものですよね。特に好きな対象に対しては。世田谷線の駅は、ホームなど改修はされていますが全体としてのイメージは昔のままなところが多いですね。
03:20 動画中の説明に「バンパーに横筋があり」とありますが、アンチクライマーという装置です。万が一、車両同士が大きな速度差で衝突した際に、片方の車両が浮き上がり、相手側の車体にめり込んで大破する事象を避けるため、アンチクライマー同士が咬みこんで縦ずれを防ぐという最終防御的な安全装置です。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。単に剛性アップや装飾のためだと思っておりました。不勉強だったので、大変ためになりました。
吊り掛け時代の70形80形が好きでした✨良き時代
いつもご視聴、コメントありがとうございます。私も70形,80形は更新前の方が好きですね。150形は当時は正直あまり興味が湧かなかったのですが、今見るとなかなか良い味わいです。
冒頭の山下駅懐かしいです。小田急豪徳寺駅と隣でしたね。撮影が88年10月とありますが、丁度は私はこの頃豪徳寺のアパートに住んでいました。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。複々線の立派な高架になってから大分経ちますが、昔の豪徳寺駅の佇まいが懐かしく思い出されます。私は主に車窓から見ていただけですが。
150形は、最後まで吊り掛け駆動方式でしたよ。
ご指摘ありがとうございます。私は世田谷線の最後の様子を直接知らかなったので、参考文献の記載「150形:駆動方式のカルダン化は1994-96年で、300系の登場により2001年2月に形式消滅となった。(原文のママ)」に基づいて動画を作成した次第です。
所々に入る子供の声、恐らく当時の自分もそれくらいだったかも。最寄り駅での映像に見ているだけで懐かしくて込み上げるものがあります。豪徳寺の駅ホームは8両化の工事をしている頃ですね。旧型車は雨の日は70,80型は床が木だったのでビチャビチャにならず、車内が歩きやすかった記憶が。進入して来る列車に定期券をかざせば出口からでも乗車できたアバウトさも良き時代です。
ご視聴、コメントありがとうございます。当チャンネルの動画では、懐かしさの要素にもなるので、子供の声や乗客の会話なども敢えてほとんど残しております。木製の床だと、ある程度水気を吸ってくれるのでしょうね。実体験に基づく、なかなか気付きにくい貴重なコメントだと思いました。
太陽にほえろやはぐれ刑事純情派の劇中にもよく出てましたね。(江戸川乱歩作品の1つで題名は忘れたけどこの路線の沿線が舞台の回もあった様な?)70形と150形も保存してほしかった。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。70年代辺りの東京を舞台にした映画やTVドラマでは、都電荒川線と並んで、この東急世田谷線もちょこちょこ出ていましたね。保存車輛が極少ないのが本当に残念です。
玉電、渋谷~二子玉川までの区間が廃止されて、連接車の200形が同時に廃車されたのが悲しかった😢砧支線の70形は、世田谷線に移動して残ったのに😵
いつもご視聴、コメントありがとうございます。え? 昭和44年の玉電廃止時をリアタイでご経験なのですか! 私は小学生でしたが、当時は玉電のことも200形のことも全く知らず、あとになってから、知っていれば乗りに行ったのに!と悔しい思いをしました。あの愛らしい200形は、幸い1編成保存はされていますが、当時の「明るい」246を実際に乗車して走行する光景は、なかなか想像できません。
200形は客には人気があり、「ペコちゃん」などと愛称がついていたのですが、会社側からは「困ったちゃん」でして、片面3箇所しかない扉、車体の裾が湾曲してスタイルは良いのですが、路面乗降時に出す(出る)ステップが故障したり、渋谷駅での折り返しバネポイントで、連節部の一軸台車だけ脱線したり、車輪が小さく手が入りにくく、整備士泣かせだったそうです。後に作られた150形は原点回帰で、シンプルイズベストの言葉通り、既存の技術の集大成的な車両です。
これ1編成だけどこぞの駅に鎮座してるな…(゜ロ゜)
いつもご視聴、コメントありがとうございます。引退後にどこかの駅に留置されていた時期はあったのかもしれませんが、世田谷線の車両で保存されたものは結局無かったかと思います。江ノ電からの里帰りとしては、緑に塗り替えられて世田谷区宮坂区民センターに1両だけ保存されていますが。
えっΣ(゜Д゜)…そうなの?知らんかった
今でも「玉電」と言って相手に伝わらず自分に苦笑します。80型の4枚窓が優雅ですね。150型は近代的過ぎましたね(笑)当時としては。極めてい加減な記憶で事実では無いかも知れませんが、80型と150型のイレギュラーな混結の記憶があるのですが、はたして?貴兄はご記憶ございますか?
いつもご視聴、コメントありがとうございます。80形と150形の連結は、ネットか本か忘れましたが、どこかで写真を見たことがあり、え?と感じた記憶はあります。車庫内や留置線上ではなく、営業線上での写真だったと思うのでので、そのような編成があったのはおそらく事実かと思います。「世田谷線」よりも「玉電」と呼んだ方が、断然親しみが湧きますよね(笑)。その玉電ですが、私は残念ながら乗ったことがありません。今と違って、子供が一人で趣味で電車に乗りに行くなど考えられない時代でしたから、親の用事で一緒に乗るのが唯一の鉄道乗車の機会でした。200形のことは後から知ったのですが、あの愛らしい電車に乗ってみたかったとずっと思っています。
後継の「新玉川線」もなくなった…😵
世田谷線沿線にある幼稚園に通っていたので、70形等の旧型電車は懐かしいです。旧型電車が引退した時が幼稚園卒園直前で、その頃の世田谷線が最も心に残っています。三軒茶屋駅が今と違ってかなりこぢんまりしていますね!
いつもご視聴、コメントありがとうございます。
5,6歳の子供の頃の記憶って意外にしっかりしているものですよね。特に好きな対象に対しては。世田谷線の駅は、ホームなど改修はされていますが全体としてのイメージは昔のままなところが多いですね。
03:20 動画中の説明に「バンパーに横筋があり」とありますが、アンチクライマーという装置です。
万が一、車両同士が大きな速度差で衝突した際に、片方の車両が浮き上がり、相手側の車体にめり込んで大破する事象を避けるため、アンチクライマー同士が咬みこんで縦ずれを防ぐという最終防御的な安全装置です。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。
単に剛性アップや装飾のためだと思っておりました。不勉強だったので、大変ためになりました。
吊り掛け時代の70形80形が好きでした✨良き時代
いつもご視聴、コメントありがとうございます。
私も70形,80形は更新前の方が好きですね。150形は当時は正直あまり興味が湧かなかったのですが、今見るとなかなか良い味わいです。
冒頭の山下駅懐かしいです。小田急豪徳寺駅と隣でしたね。撮影が88年10月とありますが、丁度は私はこの頃豪徳寺のアパートに住んでいました。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。
複々線の立派な高架になってから大分経ちますが、昔の豪徳寺駅の佇まいが懐かしく思い出されます。私は主に車窓から見ていただけですが。
150形は、最後まで吊り掛け駆動方式でしたよ。
ご指摘ありがとうございます。
私は世田谷線の最後の様子を直接知らかなったので、参考文献の記載「150形:駆動方式のカルダン化は1994-96年で、300系の登場により2001年2月に形式消滅となった。(原文のママ)」に基づいて動画を作成した次第です。
所々に入る子供の声、恐らく当時の自分もそれくらいだったかも。
最寄り駅での映像に見ているだけで懐かしくて込み上げるものがあります。
豪徳寺の駅ホームは8両化の工事をしている頃ですね。
旧型車は雨の日は70,80型は床が木だったのでビチャビチャにならず、車内が歩きやすかった記憶が。
進入して来る列車に定期券をかざせば出口からでも乗車できたアバウトさも良き時代です。
ご視聴、コメントありがとうございます。
当チャンネルの動画では、懐かしさの要素にもなるので、子供の声や乗客の会話なども敢えてほとんど残しております。木製の床だと、ある程度水気を吸ってくれるのでしょうね。実体験に基づく、なかなか気付きにくい貴重なコメントだと思いました。
太陽にほえろやはぐれ刑事純情派の劇中にもよく出てましたね。(江戸川乱歩作品の1つで題名は忘れたけどこの路線の沿線が舞台の回もあった様な?)70形と150形も保存してほしかった。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。
70年代辺りの東京を舞台にした映画やTVドラマでは、都電荒川線と並んで、この東急世田谷線もちょこちょこ出ていましたね。保存車輛が極少ないのが本当に残念です。
玉電、渋谷~二子玉川までの区間が廃止されて、連接車の200形が同時に廃車されたのが悲しかった😢砧支線の70形は、世田谷線に移動して残ったのに😵
いつもご視聴、コメントありがとうございます。
え? 昭和44年の玉電廃止時をリアタイでご経験なのですか! 私は小学生でしたが、当時は玉電のことも200形のことも全く知らず、あとになってから、知っていれば乗りに行ったのに!と悔しい思いをしました。あの愛らしい200形は、幸い1編成保存はされていますが、当時の「明るい」246を実際に乗車して走行する光景は、なかなか想像できません。
200形は客には人気があり、「ペコちゃん」などと愛称がついていたのですが、会社側からは「困ったちゃん」でして、片面3箇所しかない扉、車体の裾が湾曲してスタイルは良いのですが、路面乗降時に出す(出る)ステップが故障したり、渋谷駅での折り返しバネポイントで、連節部の一軸台車だけ脱線したり、車輪が小さく手が入りにくく、整備士泣かせだったそうです。
後に作られた150形は原点回帰で、シンプルイズベストの言葉通り、既存の技術の集大成的な車両です。
これ1編成だけどこぞの駅に鎮座してるな…(゜ロ゜)
いつもご視聴、コメントありがとうございます。
引退後にどこかの駅に留置されていた時期はあったのかもしれませんが、世田谷線の車両で保存されたものは結局無かったかと思います。江ノ電からの里帰りとしては、緑に塗り替えられて世田谷区宮坂区民センターに1両だけ保存されていますが。
えっΣ(゜Д゜)…そうなの?知らんかった
今でも「玉電」と言って相手に伝わらず自分に苦笑します。
80型の4枚窓が優雅ですね。150型は近代的過ぎましたね(笑)当時としては。
極めてい加減な記憶で事実では無いかも知れませんが、80型と150型のイレギュラーな混結の記憶があるのですが、はたして?貴兄はご記憶ございますか?
いつもご視聴、コメントありがとうございます。
80形と150形の連結は、ネットか本か忘れましたが、どこかで写真を見たことがあり、え?と感じた記憶はあります。車庫内や留置線上ではなく、営業線上での写真だったと思うのでので、そのような編成があったのはおそらく事実かと思います。
「世田谷線」よりも「玉電」と呼んだ方が、断然親しみが湧きますよね(笑)。その玉電ですが、私は残念ながら乗ったことがありません。今と違って、子供が一人で趣味で電車に乗りに行くなど考えられない時代でしたから、親の用事で一緒に乗るのが唯一の鉄道乗車の機会でした。200形のことは後から知ったのですが、あの愛らしい電車に乗ってみたかったとずっと思っています。
後継の「新玉川線」もなくなった…😵